【1】クリスティーナ・グプタ「『私はただ違うだけで、間違っていない』:アセクシュアルの排除と抵抗」

Kristina Gupta (2017) “And Now I’m Just Different, but There’s Nothing Actually Wrong With Me”: Asexual Marginalization and Resistance, Journal of Homosexuality, 64:8, 991-1013.

を読んでいます。

前↓

sociolutra.hatenadiary.com

 

前回は、いろいろ書いていたら結局読みはじめることができませんでしたが、今回から実際に読み始めたいと思います。

 

文章全体の構造としては、一般的な論文の構成になっています。

「論文」という文章は大抵一番はじめに「アブストラクト=要約」があり、そこにその論文の問いと結論が簡単に書いてあります。

本文になると、その研究の研究背景、そしてその研究に関連する先行研究の紹介をして、その論文がどういう文脈のもとで書かれているのかが提示されます。

その後、研究デザイン、つまりどんなやり方で研究がされているのかを示し、協力してくれたインタビューの回答者についての説明(どんな人たちか)が示されます。

 そうした形式的な説明をした後に、実際の調査結果、分析を書いて結論と言う流れです。

 

今回は、アブストラクト部分をまずは読んでいこうかなと思います。

この部分は、論文全体を見通すものになっているので割と丁寧めに読もうかなと。

 

ABSTRACT
This article explores the relationship between contemporary asexual lives and compulsory sexuality, or the privileging of sexuality and the marginalizing of nonsexuality. Drawing on 30 in-depth interviews, I identify four ways the asexually identified individuals in this study saw themselves as affected by compulsory sexuality: pathologization, isolation, unwanted sex and relationship conflict, and the denial of epistemic authority. I also identify five ways these asexually identified individuals disrupted compulsory sexuality: adopting a language of difference and a capacity to describe asexuality; deemphasizing the importance of sexuality in human life; developing new types of nonsexual relationships; constituting asexuality as a sexual orientation or identity; and engaging in community building and outreach. I argue that some of these practices offer only a limited disruption of compulsory sexuality, but some of these practices pose a radical challenge to sexual norms by calling into question the widespread assumption that sexuality is a necessary part of human flourishing.

 

まず、1行めは

This article explores the relationship between contemporary asexual lives and compulsory sexuality, or the privileging of sexuality and the marginalizing of nonsexuality.

で、訳すと、

「本稿は、現代のアセクシュアルの生と性愛の強制、すなわち性愛の特権と非性愛の排除との間の関係を探るものである。」

となります。*1*2

orを言い換えの「すなわち」と読んでいますが、そうすると「現代のアセクシュアルの生(asexual lives)」と「性愛の強制(compulsory sexuality)」の間の関係と「性愛の特権(the privileging of sexuality)」と「非性愛の排除(the marginalizing of nonsexuality)」の間の関係は、言い換え可能な同じ関係性であるということになります。

ここは一つ気になるところ。それぞれ具体的にはどんなことを示しているのか確認していく必要がありそうです。

さしあたりは、アセクシュアルの生活とセクシュアルであることを強制されることとの関係、そして、セクシュアルであることで受けられる多くの恩恵とセクシュアルでないことの排除、不可視化との関係。

それがどんなものなのか、どうなっているのか。

これが、この論文のテーマであり問いです。

 

で、2行めは

Drawing on 30 in-depth interviews, I identify four ways the asexually identified individuals in this study saw themselves as affected by compulsory sexuality: pathologization, isolation, unwanted sex and relationship conflict, and the denial of epistemic authority.

で、訳すと、

30の詳細なインタビューから、本研究におけるアセクシュアルを自認する個々人が性愛の強制の影響を受けたとみなす4つの方法を明らかにする。

それらは、病理化、孤立、望まないセックスと関係の衝突、そして認識的権威の否定である。

となります。

ここでは、この論文が30のインタビューの分析であることとそこからアセクシュアルの人が性愛の強制を感じた4つの方法が明らかにされることが示されています。

インタビューから、アセクシュアルの人の性愛の強制に関係する経験が4つのパターンで存在していることがわかったということだと思います。

そして、それらが何かというと「病理化(pathologization)」「孤立(isolation)」「望まないセックスと関係の衝突(unwanted sex and relationship conflict)」「認識的権威の否定(the denial of epistemic authority)」だということ。

これらは結構「アセクシュアル」ということを考えた時にはわかりやすい経験というか、よくテーマになるような経験のパターンたちな感じがしますね。

ちなみに「認識的権威」とは、あるものに対する認識や知識の信頼性についての権威です。例えば、「病気」ということを考えたとき自分が病気であるのかどうか、あるいはどんな病気なのかという認識は、自分の感覚や判断よりも医者の判断や認識の方が信頼できると考えられるというようなもの。「どんなに自分が癌だ!!」と信じていても医者が検査をして「あなたは癌ではない」と言ったならば基本的には「癌であるのかどうか」という認識は医者の方に権威があるので「癌ではない」とみなされるでしょう。

そう考えると、「まだ運命の人に出会っていないだけ」的な言説は「認識的権威の否定」に入りそうです。多分。

まあいずれにしても、それぞれどんな経験が語られているのかということとは楽しみです。

 

で、3行めは

I also identify five ways these asexually identified individuals disrupted compulsory sexuality: adopting a language of difference and a capacity to describe asexuality; deemphasizing the importance of sexuality in human life; developing new types of nonsexual relationships; constituting asexuality as a sexual orientation or identity; and engaging in community building and outreach.

で、訳すと、

これらのアセクシュアルの個々人が性愛の強制を乱す5つの方法もまた明らかにする。

それらは、差異の言語とアセクシュアルを言い表すための能力を採用すること、人間生活における性愛の重要性の強調を抑えること、新しいタイプの非性愛的な関係を発展させること、性的指向性自認としてのアセクシュアルを構成すること、そしてコミュニティの設立やアウトリーチに従事することである。

となります。

つまり、一個前のセクシュアルであることを強制されるという経験がどんなものであるかに加えて、そうした性愛の強制という規範を乱している、崩しているようなアセクシュアルの人たちの実践も5つ浮かび上がってきたということが言われています。

それぞれ興味深いですが、具体的にどんな経験なのか気になります。

 

で、最後の4行めは

 I argue that some of these practices offer only a limited disruption of compulsory sexuality, but some of these practices pose a radical challenge to sexual norms by calling into question the widespread assumption that sexuality is a necessary part of human flourishing.

で、訳すと、

これらの実践のうちいくつかの起こす性愛の強制の混乱はごくわずかであるが、いくつかの実践は、性愛は人間の繁栄の必要な一部分であるという広い前提に疑問を投げかけることで性規範にラディカルな挑戦を提起している。

となります。

生物が生き残るためにはセクシュアルでなければならないということはよく言われることですが、そうした前提にいくつかの実践は、ラディカルに挑戦できているという主張です。

つまり、人間の繁栄のためには恋愛とか性愛とかが必要不可欠でしょ!という常識を壊すような問題提起をしているということだと思います。

そうであってほしいところですが、実際どう影響しているのかということも一つ読む上で注目するポイントになりそう。

 

というわけで、この論文の要約部分は以上です。

まとめると(要約の要約!!)、

アセクシュアルの生と性愛の強制の関係がテーマ(問い)であり、

インタビューから著者は、

・性愛の強制を感じた4つのパターンと、

・性愛の強制を混乱させる5つのパターン

があると主張する。

ということになります。

 

これを踏まえて、次からやっと本文。

まずは、背景と先行研究部分(までいけるかな?)を読みたいと思います。

 

次↓

(準備中)

*1:sexualityとnonsexualityは、それぞれセクシュアリティ-ノンセクシュアリティとすると、日本で言うところのセクシュアリティ、ノンセクシュアリティと混乱してしまうため、ここではそれぞれ性愛−非性愛という訳語で行きます。

日本語の文献では、それぞれセクシュアリティ−ノンセクシュアリティとしているものもあるので、適宜同じものを指しているんだということは注意。

*2:「性愛の強制(compulsory sexuality)」は「セクシュアリティの強制」「強制的セクシュアリティ」などと訳される場合も