当事者研究としての読書:このブログにおける文章の読み方の方針

このブログでは、主に本や論文を読む記事を書いていくことが目的になっています。

 

「読書ブログ」というと、読んだ感想や自分の意見などを書くということが定番だと思いますが、このブログでは少し違った方針で書いていきたいと思っています。

 

なので、一応説明としてこのブログにおける文章の読み方の方針を明示しておきます。

 

やりたいことは、わたしが文章を読む過程をデモンストレーション的に示していくことです。

順序としては、

・まずはテクストに何が書いてあるのかを把握しようとするフェーズがあり、

・その際に文章のつながりがわからないところや、なぜ(別の書き方ではなく)この書き方、この説明をしているのかということを考えます。

・それに付随した形で、何か私が思うことを書くかもしれない

という形で書いていくつもりです。

 

「書いてあることを読み取る」というのは、(そのままだけど)著者が言いたいことを(共感したり、反論したりする前に)とりあえず把握するということです。

おそらく、人文社会科学系を中心とした書籍や論文を読むことが多いですが、そういった国語でいうところの評論文的な文章は、

・著者が言いたいこと=結論

・なぜ/どのようにそのことが言えるのか=結論への道すじ、論理

で構成されている(はず)なので、読み手(わたし)がその構成を再現する形で把握していきます。

 

こういう「書いてあることを書いてあるままに取り出す」という作業は、一見受動的な・インプット的な作業に思えます。

しばしば、「本の内容を忘れてしまう」という悩みに対する回答として、「アウトプットをしよう」というものがありますが、ここで考えられている「本の内容を取り出す」という作業はまさにインプット=受動的なものという前提があるように感じられます。

しかし、実際に書いてある主張がどのような道筋で根拠づけられ論理立てられているのかということを把握しようとすると、「一直線に描かれている文章を頭の中で立体に組み立て直す」という能動的な作業が必要になります。

そうしたとき、読み手である私が組み立てようとするとき、その論理の道筋の形に違和感を感じたり、論理と論理のあいだの関係によくわからない部分を見つけたりすることがあるかもしれません。

そうした「違和感」や「よくわからなさ」は、「わたし」と「著者」の距離ということになります。

その「距離」は、もしかすると私の何らかのこだわりを表しているかもしれません。

 

何かしらのテクストを、書いてあるままに読もうとすること。

その中で、私のこだわり、あるいは何気なく自分の考えの前提としてしまっていることを発見すること。

そういうことを理念として、文章を読んでいきたいと思います。