國分功一郎, 2021, 「中動態から考える利他−−責任と帰責性」伊藤亜沙編『「利他」とは何か』111-134.
今回は、伊藤亜沙編『利他とは何か』所収の國分功一郎「中動態から考える利他−−責任と帰責性」について。
この論文の入っている『利他とは何か』という本は、コロナ禍において東工大の「未来の人類研究センター」メンバーが「利他」をテーマにして書いた論考を集めた論文集(エッセイ集?)みたい。
國分功一郎が「中動態」という概念と「責任」という概念について直接両者を論じているものになる。
この文章で本人が言っている通り、『中動態の世界』では「責任」についてはほとんど触れられていない。
あの本には「意志と責任の考古学」という副題が付けられていました。僕は意志の概念についてはあの本で相当深く論じられたと思っています。しかし責任の概念については十分な考察ができていませんでした。(125)
というわけで、この文章では「責任と帰責性」という副題がついているので今度こそは論じられるだろうという希望をもって読んでみる*1。
『中動態の世界』では、古代インド=ヨーロッパ語に「中動態」という概念が存在していて、そこでは現代のように「能動態−受動態」という二項対立ではなく「能動態−中動態」という二項対立があったということが論じられている。
「能動態−中動態」という対立について國分はフランスの言語学者エミール・バンヴェニストの定義をひく。
能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している*2
例えば、ギリシア語のφαίνω(ファイノー)という語について考えてみる。
φαίνοµαι(ファイノマイ)は英語にするとI showで、つまり「見せる」という意味。
φαίνω(ファイノー)は能動態らしい。
これを中動態に活用するとφαίνοµαι(ファイノマイ)になる。
そうすると、意味は「私があらわれる」という意味になる。英語にすればI appear。
しかし、それだけではない。「あらわれる」ということは「見せられる」ということであるから、I am shownにもなるし、再起表現をすればI show myselfとも訳せる。
すなわち、ファイノマイという中動態に活用した動詞には、少なくとも、自動詞で表現・翻訳できる意味、受動態で表現・翻訳できる意味、再帰表現で表現・翻訳できる意味の三つが同居しているということです。「私があらわれる」(I appear)も「私が見せられる」(I am shown)も「私が自分自身を見せる」(I show myself)もたしかに同じ事態を表現しています。だから古代ギリシア語では、ファイノマイというひとつの動詞がこれらを担当していたわけです。(118)
ここで注目されるのは、通常「能動−受動」の対立で考えれば対立するはずのI appear(能動態)とI am shown(受動態)が同居しているということ。
中動態的表現では、両者は区別されない。
このことについて國分は「自分が研究会で発表すること」が「自発的行為」であると同時に順番が回ってきたからそうするという「受動的行為」の両方の側面があるということをから「自分が研究会で発表すること」は「自発的かどうかなど分からない」というふうに施行している。
ところが、能動態と受動態を対立させる言語はそれを何としてでもはっきりさせようとする。どちらかに決めないとそれを言葉で表すことすらできない。ファイノマイのような言い方はないのです。「能動なのか受動なのか、どちらなんだ」と詰め寄ってくる現代の言語を僕は「尋問する言語」と呼んでいます。
そして「尋問する言語」である「能動−受動」対立の言語は、「意志」を問題にしているのだと、論を進めていく。
ここで國分はアレントを引いて、意志概念について論じている。
簡単にそこで言われていることをまとめれば、「意志」とは過去から未来へ連続する因果関係を切断して、新しく「未来への原因としての意志」を創造するものであるということ、そしてそうした考え方はパウロやアウグスティヌスといったキリスト教的な考え方から出てきたということだ。*3
そうしたわけで、「意志の概念は今述べたようにある種の進行を前提にしなければとても支持しえないもの」ということになる。
ギリシアにも故意に行ったこととそうではないことの区別ははっきりとありました。故意にやったことを「(ヘコーン)」といい、故意ではなく行ったことを「(アコーン)」といいます。
たとえば、貪欲さや快楽の魅力に負けてやってしまった場合も「ヘコーン」です。また大変興味深いことに、動物の振る舞いもヘコーンといわれます。このように考えると、ヘコーンと「意志的」が重ならないことがよく分かると思います。
ヘコーンという「意志的」とは重ならない「故意」と「故意でない」を分ける概念があったらしい。
ということで、このへコーンとアコーンの区別が持ち出されたのでそれについて論じてくれるのだろうとワクワクしていると、そういうわけでもなくここからギリシア悲劇における「神的因果性」と「人的因果性」という概念について論じられ始めることになる。
正直いうと、この論文は何を言っているのか私には分からなかった。
というのも、中動態的な責任を論じるということであるならまさにへコーンとアコーンの区別について明らかにされるべきだと思うから。
しかしここからは残念ながら「神的因果性」と「人的因果性」の話になる。
もしかしたら、へコーン/アコーンの区別は神的因果性/人的因果性の区別に重ねられるのではないかと思われるかもしれないが、私の感じるところではあまり重なっていない。
ギリシア悲劇においては、運命的にそうなってしまうという「神的因果性」と人物が自ら選ぶという「人的因果性」が双方同時に提示される。
例えば、オイディプスは「父を殺し母を娶る」という運命とそれをしたことに対する罰として「自ら目を潰す」ということが同時に物語の中にある。
「運命で仕方がなかった」ということと「自らその道を選んだ」ということはアンチノミーであるが、その「アンチノミーの両項を肯定する」ということがそこにはある(と論じられている)。
それを國分は「加害者であるが被害者である」と言い換えている。
つまり、「人的因果性」とは「加害者であること」であり「神的因果性」は「被害者であること」と言い換えられている。
ここから、「プリズンサークル」や「当事者研究」の話になる。
受刑者たちは自分たちが犯罪を起こすに至るさまざまな経験を共有していきます。それはいわば神的因果性の被害者としての自分を見つめることです。それが、最終的に、人間的因果性においてとらえられた加害者ととしての自分を見つめることにつながる。ここにはヴェルナンがギリシア悲劇に見ていた、神的因果性と人間的因果性の同時肯定が見出せるように思われるのです。
「神的因果性」と「人的因果性」はどのような関係にあるのだろうか。
というかそもそも中動態とどんな関係があるのだろうか。
次の節では「責任と帰責性」ということでタイトル回収のような節題が付けられているが、応答責任としての責任が中動態的な責任なのだという話になっていく。
この節とそれまでの議論はどんな繋がりになっているのか説明がされていないのでよく分からない。
意志と結びついた責任は「堕落した責任概念」であり、中動態的責任は「応答としての責任」であるらしいが、その話と古代ギリシアにおけるへコーン/アコーンの区別と神的因果性/人的因果性の両肯定はどう位置づけられるのだろうか。
私にとっての「中動態」概念の謎さは、このへコーン/アコーンから神的因果性/人的因果性の両肯定への飛び方、そして最後の応答責任としての責任の話へのつながりのなさという部分に大きく出ているように思われる。
この辺教えてくれる方がいれば、ぜひ、、、。
【1】クリスティーナ・グプタ「『私はただ違うだけで、間違っていない』:アセクシュアルの排除と抵抗」
Kristina Gupta (2017) “And Now I’m Just Different, but There’s Nothing Actually Wrong With Me”: Asexual Marginalization and Resistance, Journal of Homosexuality, 64:8, 991-1013.
を読んでいます。
前↓
前回は、いろいろ書いていたら結局読みはじめることができませんでしたが、今回から実際に読み始めたいと思います。
文章全体の構造としては、一般的な論文の構成になっています。
「論文」という文章は大抵一番はじめに「アブストラクト=要約」があり、そこにその論文の問いと結論が簡単に書いてあります。
本文になると、その研究の研究背景、そしてその研究に関連する先行研究の紹介をして、その論文がどういう文脈のもとで書かれているのかが提示されます。
その後、研究デザイン、つまりどんなやり方で研究がされているのかを示し、協力してくれたインタビューの回答者についての説明(どんな人たちか)が示されます。
そうした形式的な説明をした後に、実際の調査結果、分析を書いて結論と言う流れです。
今回は、アブストラクト部分をまずは読んでいこうかなと思います。
この部分は、論文全体を見通すものになっているので割と丁寧めに読もうかなと。
ABSTRACT
This article explores the relationship between contemporary asexual lives and compulsory sexuality, or the privileging of sexuality and the marginalizing of nonsexuality. Drawing on 30 in-depth interviews, I identify four ways the asexually identified individuals in this study saw themselves as affected by compulsory sexuality: pathologization, isolation, unwanted sex and relationship conflict, and the denial of epistemic authority. I also identify five ways these asexually identified individuals disrupted compulsory sexuality: adopting a language of difference and a capacity to describe asexuality; deemphasizing the importance of sexuality in human life; developing new types of nonsexual relationships; constituting asexuality as a sexual orientation or identity; and engaging in community building and outreach. I argue that some of these practices offer only a limited disruption of compulsory sexuality, but some of these practices pose a radical challenge to sexual norms by calling into question the widespread assumption that sexuality is a necessary part of human flourishing.
まず、1行めは
This article explores the relationship between contemporary asexual lives and compulsory sexuality, or the privileging of sexuality and the marginalizing of nonsexuality.
で、訳すと、
「本稿は、現代のアセクシュアルの生と性愛の強制、すなわち性愛の特権と非性愛の排除との間の関係を探るものである。」
orを言い換えの「すなわち」と読んでいますが、そうすると「現代のアセクシュアルの生(asexual lives)」と「性愛の強制(compulsory sexuality)」の間の関係と「性愛の特権(the privileging of sexuality)」と「非性愛の排除(the marginalizing of nonsexuality)」の間の関係は、言い換え可能な同じ関係性であるということになります。
ここは一つ気になるところ。それぞれ具体的にはどんなことを示しているのか確認していく必要がありそうです。
さしあたりは、アセクシュアルの生活とセクシュアルであることを強制されることとの関係、そして、セクシュアルであることで受けられる多くの恩恵とセクシュアルでないことの排除、不可視化との関係。
それがどんなものなのか、どうなっているのか。
これが、この論文のテーマであり問いです。
で、2行めは
Drawing on 30 in-depth interviews, I identify four ways the asexually identified individuals in this study saw themselves as affected by compulsory sexuality: pathologization, isolation, unwanted sex and relationship conflict, and the denial of epistemic authority.
で、訳すと、
「30の詳細なインタビューから、本研究におけるアセクシュアルを自認する個々人が性愛の強制の影響を受けたとみなす4つの方法を明らかにする。
それらは、病理化、孤立、望まないセックスと関係の衝突、そして認識的権威の否定である。」
となります。
ここでは、この論文が30のインタビューの分析であることとそこからアセクシュアルの人が性愛の強制を感じた4つの方法が明らかにされることが示されています。
インタビューから、アセクシュアルの人の性愛の強制に関係する経験が4つのパターンで存在していることがわかったということだと思います。
そして、それらが何かというと「病理化(pathologization)」「孤立(isolation)」「望まないセックスと関係の衝突(unwanted sex and relationship conflict)」「認識的権威の否定(the denial of epistemic authority)」だということ。
これらは結構「アセクシュアル」ということを考えた時にはわかりやすい経験というか、よくテーマになるような経験のパターンたちな感じがしますね。
ちなみに「認識的権威」とは、あるものに対する認識や知識の信頼性についての権威です。例えば、「病気」ということを考えたとき自分が病気であるのかどうか、あるいはどんな病気なのかという認識は、自分の感覚や判断よりも医者の判断や認識の方が信頼できると考えられるというようなもの。「どんなに自分が癌だ!!」と信じていても医者が検査をして「あなたは癌ではない」と言ったならば基本的には「癌であるのかどうか」という認識は医者の方に権威があるので「癌ではない」とみなされるでしょう。
そう考えると、「まだ運命の人に出会っていないだけ」的な言説は「認識的権威の否定」に入りそうです。多分。
まあいずれにしても、それぞれどんな経験が語られているのかということとは楽しみです。
で、3行めは
I also identify five ways these asexually identified individuals disrupted compulsory sexuality: adopting a language of difference and a capacity to describe asexuality; deemphasizing the importance of sexuality in human life; developing new types of nonsexual relationships; constituting asexuality as a sexual orientation or identity; and engaging in community building and outreach.
で、訳すと、
「これらのアセクシュアルの個々人が性愛の強制を乱す5つの方法もまた明らかにする。
それらは、差異の言語とアセクシュアルを言い表すための能力を採用すること、人間生活における性愛の重要性の強調を抑えること、新しいタイプの非性愛的な関係を発展させること、性的指向や性自認としてのアセクシュアルを構成すること、そしてコミュニティの設立やアウトリーチに従事することである。」
となります。
つまり、一個前のセクシュアルであることを強制されるという経験がどんなものであるかに加えて、そうした性愛の強制という規範を乱している、崩しているようなアセクシュアルの人たちの実践も5つ浮かび上がってきたということが言われています。
それぞれ興味深いですが、具体的にどんな経験なのか気になります。
で、最後の4行めは
I argue that some of these practices offer only a limited disruption of compulsory sexuality, but some of these practices pose a radical challenge to sexual norms by calling into question the widespread assumption that sexuality is a necessary part of human flourishing.
で、訳すと、
「これらの実践のうちいくつかの起こす性愛の強制の混乱はごくわずかであるが、いくつかの実践は、性愛は人間の繁栄の必要な一部分であるという広い前提に疑問を投げかけることで性規範にラディカルな挑戦を提起している。」
となります。
生物が生き残るためにはセクシュアルでなければならないということはよく言われることですが、そうした前提にいくつかの実践は、ラディカルに挑戦できているという主張です。
つまり、人間の繁栄のためには恋愛とか性愛とかが必要不可欠でしょ!という常識を壊すような問題提起をしているということだと思います。
そうであってほしいところですが、実際どう影響しているのかということも一つ読む上で注目するポイントになりそう。
というわけで、この論文の要約部分は以上です。
まとめると(要約の要約!!)、
・アセクシュアルの生と性愛の強制の関係がテーマ(問い)であり、
インタビューから著者は、
・性愛の強制を感じた4つのパターンと、
・性愛の強制を混乱させる5つのパターン
があると主張する。
ということになります。
これを踏まえて、次からやっと本文。
まずは、背景と先行研究部分(までいけるかな?)を読みたいと思います。
次↓
(準備中)
【0】クリスティーナ・グプタ「『私はただ違うだけで、間違っていない』:アセクシュアルの排除と抵抗」
英語を読む練習を兼ねて、英語の論文を読んでいきたいと思います。
「アセクシュアル」というセクシュアリティについて関心があるので、アセクシュアル関係の論文を少しずつ読んでいこうかなと。
(あ、私は特にアセクシュアル研究やジェンダー・セクシュアリティ研究の専門家でも研究している人間でもなく趣味的に調べている人間です。なので、間違っていたり有用な情報などをご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただけると大変助かります。)
(あと、英語もかなり不安がある(だから練習している)ので、訳なども間違いがあったらご指摘お願いします)
日本では、As Loopという団体がアセクシュアルの調査を行なっているようですが、全体としてはアセクシュアルの研究はあまり盛んではない状況だと思います。
例えば、Google Scholarという論文を検索できるサービスで「アセクシュアル」と検索すると下の画像のような結果になりますが、3位まではアセクシュアルについての論文ですが、4位からは「セクシュアル・マイノリティ」の論文になっています。
これは、日本語では3本しかアセクシュアルの論文が存在しないということではありませんが(実際他にもあります)、非常に少ないことはわかるでしょう。
一方、海外では英語圏に絞ってもそこそこ研究があるようで、asexualと検索するとそこそこヒットします(これは、アロマンティック/aromanticも同様の傾向)。
そこで、英語圏のアロマンティック・アセクシュアルの研究動向を把握することを兼ねつつ、私の英語力(reading)向上を目指して少しずつではあると思いますが、ace/aro関連の論文を読んでいきたいと思います。
まずは、Kristina Guptaの
“And Now I’m Just Different, but There’s Nothing Actually Wrong With Me”: Asexual Marginalization and Resistance
という論文を読んでみようと思います。
タイトルを訳してみると、「『私はただ違うだけで、間違っていない』:アセクシュアルの排除と抵抗」というような感じでしょうか。
2017年の論文で、アセクシュアル当事者への30のインタビューを分析したもののようです。
現状オープンアクセスで誰でも論文はみることができるようですので、興味ある方は以下のリンクから見てみてください(2022年9月現在)。
この論文を選んだ理由は特にありません。
たまたま見つけたので、読んでみようという程度の感じ。
このクリスティーナ・グプタという人は、アメリカのジェンダーやセクシュアリティを専門とする方のようです。
ホームページでは、フェミニスト批評の専門家と説明されていますね。
この論文の他にもアセクシュアルをテーマとしたものを多く書いている方のようなので、チェックしていきたいところです。
今回は、イントロダクションということでこの辺にしておきます。
複数回に分けてゆっくりと読んでいくつもりですのでよろしくお願いします。
次回↓
当事者研究としての読書:このブログにおける文章の読み方の方針
このブログでは、主に本や論文を読む記事を書いていくことが目的になっています。
「読書ブログ」というと、読んだ感想や自分の意見などを書くということが定番だと思いますが、このブログでは少し違った方針で書いていきたいと思っています。
なので、一応説明としてこのブログにおける文章の読み方の方針を明示しておきます。
やりたいことは、わたしが文章を読む過程をデモンストレーション的に示していくことです。
順序としては、
・まずはテクストに何が書いてあるのかを把握しようとするフェーズがあり、
・その際に文章のつながりがわからないところや、なぜ(別の書き方ではなく)この書き方、この説明をしているのかということを考えます。
・それに付随した形で、何か私が思うことを書くかもしれない
という形で書いていくつもりです。
「書いてあることを読み取る」というのは、(そのままだけど)著者が言いたいことを(共感したり、反論したりする前に)とりあえず把握するということです。
おそらく、人文社会科学系を中心とした書籍や論文を読むことが多いですが、そういった国語でいうところの評論文的な文章は、
・著者が言いたいこと=結論
と
・なぜ/どのようにそのことが言えるのか=結論への道すじ、論理
で構成されている(はず)なので、読み手(わたし)がその構成を再現する形で把握していきます。
こういう「書いてあることを書いてあるままに取り出す」という作業は、一見受動的な・インプット的な作業に思えます。
しばしば、「本の内容を忘れてしまう」という悩みに対する回答として、「アウトプットをしよう」というものがありますが、ここで考えられている「本の内容を取り出す」という作業はまさにインプット=受動的なものという前提があるように感じられます。
しかし、実際に書いてある主張がどのような道筋で根拠づけられ論理立てられているのかということを把握しようとすると、「一直線に描かれている文章を頭の中で立体に組み立て直す」という能動的な作業が必要になります。
そうしたとき、読み手である私が組み立てようとするとき、その論理の道筋の形に違和感を感じたり、論理と論理のあいだの関係によくわからない部分を見つけたりすることがあるかもしれません。
そうした「違和感」や「よくわからなさ」は、「わたし」と「著者」の距離ということになります。
その「距離」は、もしかすると私の何らかのこだわりを表しているかもしれません。
何かしらのテクストを、書いてあるままに読もうとすること。
その中で、私のこだわり、あるいは何気なく自分の考えの前提としてしまっていることを発見すること。
そういうことを理念として、文章を読んでいきたいと思います。
【0】國分功一郎『中動態の世界』を読む
『中動態の世界』は、2017年に出版された比較的新しい哲学の本。
この本はおそらく、「ふつう」の本とは違って「新しい世界」を提示することを目的として書かれているように感じられる。
つまり、なんらかの問題が既存の考え方では太刀打ちできなくなっていてそういう状況を打開するために新しい世界観を提示するということが企図されている。
実際、ある種の流行りの言葉として「中動態」はあると思う。
哲学書であるのに一般に読まれているし、学術論文でもしばしばこの言葉を見る。
では、「中動態」とはなんなのだろうか。
今のところ私にはわかるようでわからないような概念だ。
この本は、一度すでに読了している。
一読目は、その「新しさ」感動を伴いながら読みつつ、読後は「わかるようでわからない」というなんとも居心地の悪い気持ちになっている。
新しい概念が導入されるときにはその概念を導入することによって生じる嬉しいことがあるはずだ(それがないのならそもそも導入する必要がない)。
では、「中動態」という概念を導入すると「何が嬉しい」のだろうか。
「わかるようでわからない」と言いつつも、全く意味不明で意味のない概念だとも思えないのが、著者の書き方のずるいところだと思う。
私の関心としては、中動態の世界において「責任」とはなんなのだろうかということがある。
この本のサブタイトルは「意志と責任の考古学」になっているが、ほとんど「責任」については記述がされていない。
著者が「責任」について書いているのは、『〈責任〉の生成』や「中動態から考える利他−−責任と帰責性」があるが、いまいち彼のいう「責任」がピンとこない。
わかるようでわからないこの「わからなさ」を大切にしつつ、「わからなさ」を手放さないように気をつけつつ、ゆっくり読んでいきたい。
目標は、「中動態における「責任」を理解すること」と「なぜ中動態はピンとこないのか」ということを言語化していくことということにさしあたり設定しておこうと思う。
だらだらと、最初から読み進めていきながら色々と考えたい。